或る女性の独白
「翻訳の世界」海外レポート1998年2月号掲載

私がストックホルムで出会ったある女性の話。
私は戦前、満州で生まれました。両親はどちらも朝鮮人で、父も母も十八歳の若さでした。その頃満州は日本でしたから、小学校では日本語を国語として学びました。
戦争が終わってから一家でソウルに帰り、看護婦としてずっと働いていましたが、ある日病院の同僚が開いた送別会で今の夫に出会いました。その頃朝鮮の国内は非常に混乱していて外国の軍隊や警察が駐留していました。夫はスウェーデンから警察官として来ていたのです。私達が出会ったのはその彼がもうスウェーデンに帰るという時でした。言葉も全く通じないのに恋に落ち、私はスウェーデンに来ることを即座に決めてしまったのです。両親は泣いて泣いて大変でした。父は母を「君の育て方が悪かったんだ」と責めましたっけ。
私がスウェーデンに来たのは1958年でした。その頃は外国人もとても少なく、故郷にいる家族とのやりとりも手紙だけ。手紙が来るとよく泣きながら読んだものです。私は何か仕事を持とうと思い、病院への就職を斡旋してもらいました。ところがそこでの仕事は掃除で、重い荷物運びもありました。母国では私は看護婦だったのに。そう思うと悔しくてたまりませんでした。その後製薬会社の研究所に移ることができましたが、子供ができてから退職しました。その頃はまだスウェーデンでも働く女性を保護する制度は整っていなかったのです。
子供の手が離れてから、保育所の指導員になりました。日本の折り紙や貼り絵を教えるととても喜ばれました。定年退職した今は自由に読書したり、昔は話せたはずの中国語を習いにいったり
去年母は亡くなりましたが、父はまだ生きているのでもう一度近いうちにソウルに行きたいですね。でも私の子供達は朝鮮語は全く話せないんです。朝鮮語は日本語のように、話す相手によって使う言葉の階級を変えねばなりません。それは本当にその国で育たないとわからないと思うんです。私は親に向かってコラ、と言うような間違った汚い朝鮮語を覚えてほしくなかったのです。
私の日本語が美しい? 教科書みたいな古い日本語でしょう。学校で習っただけですからね。でも小さい時学んだ言語は忘れようにも忘れられないんですよ。
戦後は日本語を使う機会がほとんどないこのおばさんの日本語メンテナンス法は専ら小説を読むことらしい。ときにはもうとっくに「死語の世界」に入ってしまった言葉を熱心に使う。例えば「ハイミス」。
田辺聖子の小説でも愛読していたのだろうか。雅子様の御成婚についても「29歳で結婚なんてハイミスですね」と何度も繰り返した。
またおばさんはとてもひょうきんな人で、私に子供時代習ったという「竹槍訓練」を掛け声と共に再現して見せてくれたりした。(これは私を笑わせようとしてしたことで、他意はない)
もう四十年近くもスウェーデンに住んだのでここが私の家です。そしていつもできるだけ子供達の近くにいてやりたい。今の望みはただそれだけなんですよ。
注 … 今このおばさんの実家があるのはソウルだが、彼女は民族も言語も「朝鮮」を使った。
(さよこ)

