心の壁
「e−とらんす」世界の街から2000年7,8,9,10月号掲載
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私が定住ビサを持ってスウェーデンに来たのはちょうど6年前。着いた翌日にしたことはコミューン(市町村)のスウェーデン学校への登録だった。どのコミューンにもスウェーデン語ができない在住の外国人のために無料の語学のクラスが設けられている。初歩のスウェーデン語を1日3時間程度、週4日無料で学べるのだった。入学は随時で、一定のレベルに達したら学期末に卒業できる。とにかくまず言葉ができねば!!と思っていた私は自分のスーツケースの中味を整理し終えるよりも先に、この学校に通い始めたのだった。

未知の国で私にとってこの学校だけが所属する社会だった。初級クラスの生徒は6人。スウェーデン人と結婚したブラジル女性、スウェーデン人の継父をもつタイ人少女、サダム・フセインの圧政から逃れて来たイラク人夫婦、それに金髪碧眼のエストニア男性だ。当時スウェーデン語のスの字もわからなかった私は、授業では初日から固まってばかりいたが、言葉は通じなくても周囲の人たちが親切であることは肌で感じられた。先生は50に手が届くというのにミニスカートにハイソックスを穿いたりするエストニア女性だった。大胆なファッションも美貌に自信があればこそ。10代のころミス・マルメ(南部の都市名)に選ばれたこともあるこの先生は、子供時代戦争を逃れるため一家で小さなボートに乗り、スウェーデンの海岸に流れ着いたという経歴の持ち主だった。この学校に通いだしてしばらくしてわかったことだが、ここの生徒のほとんどが彼女同様難民出身であり、「スウェーデン語を無料で学んでいる」どころか、学校に通うことによって国から生活費を支給されているのだった。

スウェーデンは福祉国家として名高いが、同時に税金が高いことでも有名だ。しかしその税金は果たして公平な使い方をされているのだろうか?という疑問に、来た早々さっそくぶち当たることになったのである。

当時スウェーデン人の平均月収は約1万6千クローネくらい(当時のレートで27万円くらい)だった。高税率のスウェーデンでは基本的にどの家庭も共働きである。だから夫婦の場合世帯収入はそのほぼ2倍となるわけだが、我が家の場合私がスウェーデンに来たばかりで収入がないため、夫の給料だけで賄っていた。日本と違ってこの国には配偶者控除や扶養手当などというものはない。そのスウェーデン語学校に来ている難民も仕事のない人ばかりだったので社会福祉の手当で生活していたが、我が家とほぼ同じ条件の家庭がもらえる手当は私の夫の収入とほぼ変わらないのだった。ちゃんと働いている人の家庭がまったく働いていない人の家庭と経済的に同じ生活しかできないということは私にはとても不公平に思えた。

私は難民でなくてもスウェーデン語学校に通うことで国から補助がもらえないだろうかといろいろな機関にたずねてみたがだめだった。私のクラスで難民手当をもらっていない人は他に2人いた。スウェーデン人夫をもつブラジル女性と、継父がスウェーデン人のタイ少女だ。学校がひけたら、ブラジル女性は祖国にいたときの資格を生かしてエスティシャンをし、タイ少女はホテルの清掃係をして働いていた。勉強しながら仕事をするのは本当に骨が折れる。だからもちろん2人とも私と同じような不満をもっていた。
ブラジル女性は言った。「私の給料はそれほど安いほうではないわ。でも32%もの所得税を払うと手元に残るのは驚くほど少ない。なのに学校に来れば遊んで暮らしている人がゴマンといる。この国の税制ってとてもヘンだわ。まるで私はあの人たちを養うために働いているようなもんじゃないの」景気がよく仕事が見つけやすいときならまだしも、90年代半ばのその頃は不景気の真っ只中だった。やっと見つけた仕事で大変な思いをして働いても、給料の3割は働かない人にもっていかれる。なんだか納得できない。しかも私にとってはその学校が当時生きる世界のすべてだったものだから、毎日学校に行くたびに胸は不満で膨らんでいくのだった。


だが不満をかこちながらも私はそこに通うしかなかった。仕事は簡単なアルバイトさえも見つからないほどの不景気、それに大学や専門学校など上級の学校に通うためには、この語学学校の卒業証書が必須だからだ。難民の人たちは表面的にはいつも明るく、教室では言葉は拙いがスウェーデン語の冗談が飛び交っていた。内戦のボスニアから来た人たちが生徒の約半数を占めていてムスリムもクロアチア人もいたが、クラスの雰囲気はいつも平和すぎるほど平穏だった。

しかし私は退屈だった。留学というと(私の場合留学ではないが)いろいろな国の人と友達づきあいができるものだと思っていたし、この学校でもそんなふうになれると期待していた。しかし彼らは優しい顔を見せながらもその内心は測りかねるところがあった。と言っても決して彼らが腹に何か黒いものを持っていたという意味ではない。下校後プライベートに家を行き来するまでにはなれない心の壁のようなものがお互いにあったのだ。別のクラスに通った日本人女性も同じようなことを言っていた。「今までの生活環境やここに来た事情があまりにも違いすぎるから、彼らにどんなふうに接していいのかわからない」
クルド人の女の子に「映画って見たことある?私は一回だけあるわ」と自慢げに言われたり、難民らの中にはときどき「あなたはすぐに在留許可証がもらえていいわね。私は2年以上もかかったのよ」などと嫉妬する人もいた。私の夫の年齢に興味を示す人が多いのは、東南アジアから来た若い女性がよく年配のスウェーデン人の後妻になっているからだった。

こんな環境の中で私はどんなふうにふるまえばいいのか混乱した。あまり接触する機会のないスウェーデン人はひどく冷淡に見えた。それでなくても外国に来て一年目というとその国の嫌なところが目につきやすい頃である。かといって途上国から来た移民や難民にも百パーセントの親しみを覚えることはできない。
そんなある日、先生がこんな提案をした。「向かいの建物に若いスウェーデン人が通う職業訓練学校があります。今度私たちとその学校で合同パーティーをしましょう」


スウェーデン語学校の向かいには職業訓練学校があった。そこは中学を卒業した後進学せず定職にもつかない若者に、何かやることを見つけさせようと自治体が考え出したクラスで、機織や自転車修理など、実際の仕事にはあまり結びつきそうにない科目を数ヶ月ごとに学ぶようにできていた。この学校同士が合コンの話を進めていたが私は気がすすまなかった。スウェーデンの教育水準の低い若者には概して移民嫌いが多い。中にはそれが嵩じて、スキンヘッズのような極右団体に入り外国人排斥運動をする子もいる。一方我々外国人も、自由に育てられすぎてモラルが低い彼らに好感は持てなかった。

しかし双方の学校が我々に交流させようとしたのも、そんな社会状況を考慮してのことかもしれない。<合コン>当日我々は自国の名物料理を持参し彼らのクラスを訪ねた。二つの学校の生徒はそれぞれ数人づつで四つのグループに分かれ、スウェーデンと自国の文化や社会についてディスカッションをした。半時間ほどの交流を終えて部屋から出てくると、別のグループにいた難民出身のイラク人女性が泣いていた。理由はこうだった。祖国での生活を尋ねられたので「食べ物もなく、道に生えていた草を採って飢えをしのぐこともあった」と話すと、若者らは笑ったというのである。

なんというバカ者か。これだからここに来るのは嫌だったんだ。その後若者らが事前に準備していたスウェーデン料理も合わせて食事会が開かれた。中学を出たばかりだというのに赤ちゃんを連れている娘もいた。会では双方から歌や踊りを披露する者も現れて、なごやかに交流が行われた。しかし帰り道クルド人やトルコ人の若い娘は口を尖らしてこう言った。「結婚もしてないのに子供ができるなんて変よ」

それでも翌日、先生がスウェーデン語学校の生徒らに感想を尋ねると、あのイラク女性も含め皆合コンをしてよかったと言った。今となっては私もあの会がいい思い出となっている。偏見が無知から来るものだとすれば、あの小さな会は私たちに思ったよりずっと大きな意義を残してくれたといえるかもしれない。 


(さよこ)


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