ティエンシャン ー ダーウーリン山荘<2月19日>
ランタン第21,22号(2000年4月)掲載


この写真は2000年8月、うるさんさんが泊まられたときの
ティエンシャン青年活動中心です。
この13年前私たちが泊まったときはもっとボロかったような・・・。
台湾島の中心は標高3416mの合歓山という山である。日本統治時代この山は新高山と呼ばれていた。あの真珠湾攻撃の暗号で知られるニイタカヤマのことだ。山岳道路「東西横貫公路」はこの山のふもとから始まり、標高差2500m、最高地点ダーウーリンは海抜2565mである。亜熱帯の台湾といえどもこのくらいの高度ともなると12月から2月までスキーもできる。ともかく今日は今回のツーリング中最大の難関であることは間違いない。
台湾の車は運転が荒いがこの山岳道路でもその特質は存分に発揮される。急なカーブでも速度を落とさない観光バスが、毎年何台かは崖から落下して乗客全員即死しているそうだ。キャー! そんなバスが頭の上から落ちて来たらどうすればいいんだ…。
ツーリングも5日目を迎え私はそろそろ普通に歩いていても足がだるく感じられ始めていた。だがランポウはむしろやる気まんまんだった。当初の疲れもとれたのか、彼女は絶好調だった。「最初の頃は寝転んでいても息苦しかった。でもこのあいだバイクに乗って少し休んだら少しよくなった」この一点では青草くんに感謝しなくてはなるまい。
今日はずっと登りだ…。そう思っただけで体が重く感じられたが走り出してしばらくすると慣れた。つづら折りのはるか先は谷間から立ち上る霧に煙っている。高度を上げるごとにその霧は次第に濃くなってくる。今まで日本でもいくつもの峠を登ってきたがいつも考えるのは「いつか頂上に着くことができるのだろうか」自転車での登りは苦しく急な坂は永遠に続くように思えるのだ。この日も同じことを思った。本当にダーウーリンに辿り着くことができるのだろうか。この計画は無謀だったのではないか。不安を振り払い、ただ前輪の下にあるアスファルトのみを見つめてペダルを漕ぐ。今夜の宿泊地は峠の頂上の少し手前にあるダーウーリン山荘というユースだが、なんとしてでも日が暮れる前にそこに辿り着かなくてはならない。
今朝かなりの危機感を持って出発しただけあって、ランポウはとてもよくがんばった。私は次第に腰に痛みを感じてきたが、彼女が休みたいというまでは意地でも休めない。
途中「シゥシージャン(休憩所の意)」と書かれたお店があったので、そこでやっと一息つくことになった。
休憩所の入り口に座り込んで一息ついていると、狭い駐車場に一台の大型観光バスが入って来た。どこかの町内会の慰安旅行なのだろうか、中から着飾った初老の女性が何人も降りてくる。店の中で分厚い財布を広げながら喜喜として買い物に興じるこの台湾人のオバサンたちの様子は日本人と全く同じだった。
私はふと、同じ中国人である大陸の人々のことを思った。ランポウも私もそのちょうど一年前、大学3年の春休みに中国大陸を訪問していた。80年代の半ば、まだ中国が今ほどの経済発展を遂げていない頃だった。上海のような大都会でも高層ビルはまれで、庶民は穴蔵のような暗い家に住んでいた。行く先で中国人と仲良くなったと喜んでいたら後で「冷蔵庫を送って、自転車を送って」とせがまれ、「親切にしてくれたのも結局方便のためだったのか」と落胆したり。お金さえありゃいいってものではないけれど、同じ民族でありながらこの生活水準の差をあちらの人が知ったら社会主義なんかあっというまにポシャってしまうのではないかなどと、勝手なことを考えた。
休憩所を出発し、また延々と続く坂を登り続ける。すれ違う車からおなじみ「ハオリーハイ(すごい!)」の声がかかる。ちょうど高度2000mのところで昼食をとる。といっても食堂などないので持参したビスケットやチョコレートを食べただけだ。このくらいの高度になると雲が眼下に見え、昨日に比べたらひどく寒い。
ダーウーリン山荘が見えたときにはもうこれ以上足腰は動かないだろうというほどだったが、感激で胸がいっぱいになった。
休憩時間を除けると結局出発から到着までトータルで7時間もかからなかった。前出の大阪のカリスマサイクリストIさんは8時間かかったということだから、天候に恵まれた点が大きかったとはいえ、私たちは相当がんばったといえよう。
(さよこ)

